懐かしの味を求めて

懐かしの味といえば、おふくろの味。私のおふくろの味と言えば、1つだけ選ぶのは難しいが、今何を食べたいかと問われれば、春巻である。えっ、私のおなかにはもう入らないって。それは腹巻である。胃腸が弱かった私は、小さかった頃、腹巻をして布団にもぐった。そんな弱い胃腸だったが、揚げたての春巻をいくつも頬張った。母がつくる春巻の具は下味がしっかりついているので、何もつけずに食べてもおいしい。外はパリパリ、中はしっとり。ビールのお供に最高である。と、子どもの私は知る由もない。


春巻の命はあのパリパリ感。しかし、私が包んだ春巻はなぜかしっとり。私はしょんぼり。それは、揚げあがりを想像することもなく、具沢山にした結果であった。大人になって、そんなことを思い出し、ふと思う。先を見通さないことも大事かも。


昨年(2023年)11月、タイへ出張した。いつもはバンコクを素通りして、タイ東北部やラオスへ赴くことが多かったが、今回は所用でバンコクに立ち寄り、1泊することになった。


私はときめいた。バンコクで、あの子と再会できるかもしれない、と。


私はあの子の居場所を突き止めるため、渡航前にインターネットの荒波に飛び込んだ。そして、驚いた。あの子の情報はここかしこに掲載されている。そんな有名になったのか。私の手が届かない存在になってしまったと思うと、バンコクを素通りしたくなる。


そんなわけない。あの子とは、タイ北部のラーメン「カオソーイ」である。私がカオソーイと出会ったのは、今から20余年前、タイ第2の都市、北部の古都・チェンマイでのこと。


私はその当時、とある国立病院の研究所に流動研究員として勤務していた。流動研究員とはその名の通り、流動的な有期雇用の研究員。英語ではリサーチ・レジデント。研修医はレジデントと言われるので、リサーチ・レジデントは研究員見習いみたいなものである。その病院には国際医療協力を専門とする部署があり、海外で実施されている日本政府の国際協力プロジェクトや国際機関に専門家を派遣していた。そのなかで私が関心を寄せたのは、国際協力事業団(JICA:現・国際協力機構)がタイ北部で実施していた「エイズ予防・地域ケアネットワークプロジェクト」である。


私がタイの大学院に留学していた1996年、タイではHIVの新規感染者数がピークに達し、予防はもとよりケアの拡充が課題となっていた。とくにタイ北部は感染者が多く、チェンマイでは10人に1人が感染していると推定されるほど、感染は広がっていた。


その背景には貧困がある。と、もっともらしく指摘されていたが、話はそう単純ではない。たとえば、こういうことがあるらしい。


かつてのタイ北部では(今もそうかもしれないが)娘が家族の世話をして、親もそれを期待しており、家計の苦しい家族は娘を都市部へ出稼ぎに出すのが習わし。そして、一部の女性は性産業に吸収されていく。一方、母系社会の色彩が強いタイ北部では、結婚すると男性が女性の家に入る。婿養子のポジションで窮屈を感じる一部の男性は性産業で興じる。貧困という言葉だけでは言い表せない事情で感染が拡大したのだ。


さて、件のプロジェクトは、JICA「ODA見える化サイト」によると、「HIV・エイズに対処する保健人材の育成やケアシステムの確立とともに、コミュニティによる啓発活動の促進を支援」するもので、「これにより、新たなHIV感染者数の減少と、感染者およびその家族の生活の質の向上に貢献しました」とある。このプロジェクトは私が流動研究員になる少し前にはじまったばかりで、私の上司が関わっていたこともあり、プロジェクトの資料を目にしていた。そこで私が気付いたのは、プロジェクトの最終目標である「生活の質の向上」を測定する尺度が準備されていなかったこと。だったら、私が準備しようと、HIV感染者の生活の質を測定する尺度が、タイよりHIV感染が先に進んでいた米国でつくられていたため、そのタイ語版をつくることにした。


というわけで、私はチェンマイを訪れたのである。私はタイ保健省・感染症予防局の地域事務所に共同研究を申し入れ、地域事務所の看護師2人が数日間、いろいろと面倒をみてくれた。しかし、そのときの記憶は断面的にしか残っておらず、ここに満足に記すことはできない。ただ、バンコクへ戻る日のことだけは鮮明に覚えている。その日が強烈だったから、ほかの日の記憶が飛んでしまったのか。


その日、バンコクには午後の飛行機で戻る予定だった。ならばと、看護師2人が早めのお昼ご飯に誘ってくれた。私はフェアウェル・ランチに心躍らせ、ホテルのロビーで2人の到着を待っていた。そして、待ち合わせ時間が少し過ぎたそのとき、ホテルの外に妙な気配を感じた。なんだか物々しい。私はロビーを飛び出し、腰を抜かした。なんと2人は軍用車然とした幌なしのジープでホテルにやってきたのである。


ジープを運転してきたのは、2人のうち、私が見下ろすくらい小柄な女性。彼女の見事なハンドルさばきで颯爽と向かったのは、地元で人気のカオソーイ屋である。私はここでも腰を抜かした。席に着き、注文後しばらくすると、はじめて見る色と香りのラーメンが目の前に現れた。そして、まずはスープを一口。おいおい、なんだ、なんだ、なんだ。このうまさは!


カオソーイの特徴は何といってもココナッツミルクのカレースープ。そんな説明では平たく聞こえてしまうが、味は分厚く、まろやかさのなかに、さわやかな辛さを感じる。その見た目はレッドカレーを乳白色で染めたような、優しさが見え隠れするが攻撃的な色合い。もしかしてスープが主役?と思わされるくらいの存在感。一方、麺も負けていない。カオソーイには茹でた平麺に、なんと揚げ麺がトッピングされる。何ともサービス精神旺盛ではないか。見た目も華やかである。濃厚なスープと戦うには、茹で麺と揚げ麺のコンビで立ち向かうしかないのだろう。役者は麺とスープだけではない。カレースープに染まりきった鶏の手羽元が揚げ麺に寄りかかるよう、ドーンと載っている。また、その脇には口直しになる高菜漬けが厳かに添えられている。これは、クマさんに言わせれば、まさにゲージツである。


カオソーイの役者たちは仲良く私に飲み込まれ、私はその刺激的なうまさに卒倒した。こんな興奮する私は、そっとしておいて。


その日以来、カオソーイの大ファンになった私は、その味を求めて、日本でタイ料理屋へ行く機会があると、メニューにカオソーイがないかチェックするようになった。そして、今から何年も前に、自宅から徒歩圏内にオープンした(しかし、今はもうない)タイ料理屋でメニューにカオソーイを見つけた。店員はタイ人である。料理人もおそらくタイ人だろう。カオソーイを注文しないわけにはいかない。そして、胸の高鳴りを抑えながら、恋人さながらにカオソーイを待つ。しかし、目の間に表れたのは、予定調和的な話の流れだが、カオソーイとは似ても似つかない代物だった。え、これで1000円。


僕はそれ以来、君を忘れることにした。


それから10数年。僕が君を忘れるはずないじゃないか・・・。そんな身勝手な私は、バンコクでカオソーイと再会することにしたのである。待ち合わせ場所は、宿泊先のホテルから徒歩圏内のレストラン。レストランの評価は上々である。私はホテルでチェックインを済ませ、荷物を部屋に置くやいなや、レストランへ足早に向かった。しかし、非情にもレストランは閉まっていた。私はしまった。


そんなことはよくある話。めげることはない。私は翌日、午後便でタイ東北部のコンケンへ向かう予定だったので、その前にランチを、と思ってレストランを再訪した。が、非情にもレストランはクローズ。私は苦労す。レストランのドアには貼り紙がしてあり、どうやら何日から何日までお休みとタイ語で書いてある。前日、私はその貼り紙を見落としていたのである。


さあ、これからどうするか。身勝手な私はバックアップを用意していた。そのレストランはホテルの最寄駅から3駅先にある、なんとミシュランガイドにも掲載されたことがあるレストラン。といっても、店構えは華美でなく、少しおしゃれなラーメン屋といったところである。


幸い席が空いていたので、着席してメニューに手を伸ばす。私は迷うことなく、カオソーイを指名。そして、数分すると、かの愛しのカオソーイがやってきた。私は抱きしめたい気持ちを抑え、カオソーイのスープを口にした。続いて、麺。そして、手羽元も。追い求めていたのは確かにこの味だ。しかし、なんだか腑に落ちない。間違いなく美味しいのに、20余年前の感動には遠く及ばない。すこぶる美味しいのになぜ・・・。


私は気が付いた。初恋の味は二度と味わえないのだ。


(2024年1月)


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