冷や汗
小中学生の頃、修学旅行や林間学校の時期が近付くと、とかく胸が高鳴った。旅行までまだ1週間もあるのに、枕元に持ち物を準備して、出発を心待ちにしていた。中3の修学旅行ではグループ行動があり、心を寄せていた女の子と同じグループになったことを知ったときは卒倒し、なかなか寝付けなかった。
グループ行動では、外国人に声をかけるという英語の課題があった。当時は日常生活で外国人を見かけることがほとんどなく、見も知らぬ外国人に声をかけるにはそれなりの度胸がいる。京都の町中を闊歩する外国人を前にグループの仲間はしり込みして、お互い譲り合う。そんな中、私は一瞬のためらいを振り切り、外国人に話しかけた。もちろん、あの子にアピールしたいという下心がなせる業である。
まあ、それはともかく、当の私は必死である。話しかけた外国人はロサンゼルスの、親しみを込めて言うと「お巡りさん」だった。別れ際に名刺をいただいた。私ははじめて手にした、しかも英語で書かれた名刺に感激し、後日お巡りさんにお礼の手紙を書いた。その後、返事をもらったことは覚えているが、何が書いてあったかまでは覚えていない。鮮明に覚えているのは、件の女の子とは何事もなく卒業式を迎え、その子は女子高へ、私は男子校へ進学したことである。
その日から30余年の月日がたった。昨年(2024年)は2月から3月にかけて5週間、週替わりで海外へ出張した。私にはもはや枕元に持ち物を準備する純真な心はかけらもなく、財布とパスポートさえあればなんとかなるだろうという大人の余裕、いや、いい加減な心持しかない。3泊4日であれば、シャツ、下着、靴下の3点セットを3日分、寝間着にする半袖Tシャツと半ズボン、洗面用具、そして財布とパスポートがあればよいので、出発当日に用意することすらある。スーツケースは煩わしいので、リュックにも手提げにも片掛けにもなる3ウェイのバックを愛用している。バックは機内に持ち込めるサイズなので、空港のターンテーブルで待ちぼうけを食うこともない。そのバックをお供に、ラオス、タイ、台湾、モンゴル、米国へ赴いた。
毎週、出国と帰国を繰り返して大変ですね。周りの人はいつにもなくやさしい声をかけてくれる。それもそのはず。実は1月にフットサルで相手選手と激しくもない接触プレーで転倒し、右ひじを骨折、右腕全体がギプスでがっちりと固定されていたから、見るからに大変。で、実際に大変だった。しかし、幸か不幸か、10年ほど前にも右ひじの同じ部位を骨折し、同じく海外出張と重なっていたため、その経験が今回の出張でいきた。何事も経験が大事、無駄なことはない・・・かも。
ちなみに、前回の骨折は労災によるもの。どんな仕事をして被災したのかと訝しく思われるかもしれないが、何のことはない。広さが東京ドーム約55個分、南北約4キロに及ぶ筑波大学のキャンパスでは自転車移動が不可欠。他所での会議に遅刻しないようにと、少々慌てて自転車の漕ぎはじめに立ち乗り状態でブレーキをかけたところ、落ち葉に滑って転落したのである。労働中の移動で被災したので、これは労災となる。
労災は午前10時5分前に起きた。かなり痛みが強かったが、大学の附属病院の救急外来にウォークインするわけにはいかないと思い、当時は大学の保健センターに整形外科があったので、午後一番で受診することにした。しかし、受診できるのは先着15名まで。そのことを知ったのは保健センターに到着したときだった。少し早めに到着したつもりだったが、時すでに遅し。すでに列ができていた。幸い15名には達しておらず、受診に至った。診察の結果、大学病院での治療が必要とのこと。診察を終えた頃には整形外科の先生が大学病院へ戻る時間になっており、車に同乗させてもらえたのは幸いであった。大学病院では引き続きその先生が骨折部位をレントゲンで透視しながら、骨のズレを手で押して直す治療(徒手整復)をしてくださった。その後、ギプスで固定して、その日の治療は終了した。
11月の日は短く、外は真っ暗。病院の受付も閑散としていた。支払窓口に人の列はなく、会計はすぐに済むと思った。しかし、当時の保険証はハガキより一回り小さな紙に印刷されたもので、携帯に向いておらず、携帯していなかった。そのため、窓口では治療費の全額が求められた。当時は今より現金払いが多く、それなりの現金を財布に忍ばせていたが、それでも十分でなかった。私は職員証を提示したうえで、翌日支払うことを約束した。しかし、口約束は通用せず、念書を書くよう指示された。利き手の右腕は「く」の字に固定されていたがそれでも書かなければならず、仕方なく左手でミミズの這ったような字で念書を仕上げた。大学の教員はこうも信用されていないのか。いや、大学病院のリスク・マネジメントはこうもしっかりしているのである。
何はともあれ、出張中はいつもより人の優しさが感じられた。行く先々では何かと気を遣ってくださり、話題にも事欠かない。しかし、不自由は不自由である。右腕が固定されているため、食事は左手が頼り。これがまったく頼りにならない。しかし、食欲には抗えない。片手で勇ましくスプーンとフォークを操り、各種料理と格闘した。今回の出張ではプラスチックのフォークを持参した。それはなぜか。ステンレスのフォークは麺料理で思いのほか熱くなるからである。これは前回の経験と反省によるもので、今回は毎朝日替わり麺が供されるラオスの定宿でプラスチックのフォークが大いに活躍した。
大変なのは食事だけではない。食後に歯を磨く。トイレでお尻を拭う。入浴時はギブス部分をビニール袋で覆い、頭や体を洗う。そして、タオルで体を拭く。これらを左手だけで行うのはなかなかしんどい。なかでも歯磨きが難しい。しかし、こういうときこそ電動歯ブラシが役に立つ。もしかしたら、いつもよりうまく歯が磨けていたかもしれない。
さて、最後の出張国は米国。その頃には右腕に巻かれたギプスを半分に切断し、下半分を包帯で巻くようになっていた。そうなるとそれはもはやギプスではなく、シーネと言うらしーね。と、おやじギャグを発する余裕も元気も出てきた。なお、左手で右腕に包帯を巻くのは難しいので、古いソックスをシーネにかぶせ、簡単に着脱できるようにした。
出張先はオハイオ州立大学。同大学は筑波大学の協定校のひとつで、今回は20名以上の教職員・学生が訪問した。出張中は全体ミーティングと個別ミーティングがあり、全体ミーティングでは各自が自己紹介を行った。自己紹介は相手を知るうえで大事だが、人数が多いと注意が散漫になりがち。出席者が40人いれば、1人1分で40分、1人30秒でも20分はかかる。ひたすら名前を聞き続けるので、それに飽きて、内職をする人が出てくる。笑いの一つでもほしいところである。そこで、私の番が回ってきたとき、一言こう述べた。
「日本人は全米50州のなかでとくにオハイオ州になじみがあります。オハイオ、オハイオ、オハヨオ・・・」
そして、最後にはオハイオ州立大学の皆さんがそろって「オハイオゴザイマス」と口ずさんでくれた。まあ、このギャグの是非はともかく、自己紹介の最中、パソコンに顔を突っ込んでいた何人かの出席者が顔を上げたので、耳目の「目」を集めるという点ではまずまずだったように思う。
米国は車社会。公共交通手段がなかったり、不便だったりする地域では、生活者にとっても旅行者にとっても移動がとてもやっかいである。しかし、車を運転しない人にとって、ウーバーが救世主となる。ちなみに、乳児の救世主は乳母、年老いた女性は姥。私は乳母や姥にはお世話になってきたが、ウーバーにお世話になったことはなかった。だから、知識はゼロ。とりあえず、スマホにウーバーのアプリをインストールしておけば大丈夫だろうと思って、渡米前にそうしておいた。
米国到着時は、すでに現地に到着しレンタカーを借りていた地盤工学が専門のM教授がポート・コロンバス国際空港まで迎えに来てくださった。そのおかげで空港ではあたふたせずに済んだ。宿泊先は、現地では移動が難しいだろうと、オハイオ州立大学のキャンパスから徒歩数分にあるホステルにした。全体ミーティングはキャンパスの外れの建物で行われたが、ホステルから3キロ弱の場所にあったので、徒歩で向かった。レセプションはコロンバス中心部のホテルで行われたが、時間に余裕があったこともあり、「街」を感じるため、都市計画が専門のO助教と徒歩で向かった。その帰りは、東大に留学経験のあるオハイオ州立大学の先生のテスラに乗せてもらった。その他の移動は誰かしらの車や誰かがウーバーで手配した車に乗ったので、自らウーバーを使う機会はなかった。
そして、最終日。ホステルでは食事が出ないので、近くのサブウェイに出かけた。実はオハイオ州にも便利な地下鉄がある、というわけではない。サブウェイとは、サンドイッチを主力商品とするファストフードチェーンである。日本にも進出しており、私がはじめてサブウェイのサンドイッチを口にしたのは、今から30余年前の学部時代。UCLAから私の大学へ交換留学していた学生の調査を手伝っていたとき、彼からおごってもらった。場所は高田馬場だったような気がするが、記憶はあいまいである。
サブウェイでは具材やソースなど細かな注文ができる。そこに付加価値があるのだろうが、注文し慣れていない人にとって、それはむしろハードルになる。注文したことがない私は、写真入りメニューのなかから好きなサンドイッチを注文した。当然、それでおしまいかと思った。しかし、女性の店員さんがパンの種類と長さを尋ねてきた。私はそんなこと言われてもという顔をしながら、どんな種類があるのか、サイズはどれくらいか尋ねた。すると、店員さんがいかにも気だるそうな表情と口調で説明してくれた。圧倒的なやる気のなさに、こちらが気疲れする。悩むことが許されない雰囲気のなかオーダーを終え、やれやれと思ったところ、次はどの野菜を入れるか尋ねてきた。ひゃー、もはや選ぶいとまはない。もう、こう答えるしかない ― a bit of everything(少しずつ全部)。しかし、これで終わりではなかった。最後の仕上げはソースである。私がソースについて説明を求めれば、その場の雰囲気は最悪になると予想された。そこで私は店員さんに尋ねた。「あなたのお勧めは何ですか」と。すると、雰囲気は若干好転し、店員さんが好きなソースを教えてくれた。そして、「オイルはかける?」と尋ねてくれた。それはおそらくルーチンの質問なのだろうが、私は勝手に店員さんの私に対する思いやりだと勘違いし、うっかりイエスと答えてしまった。が、後の祭り。オイルだらけのサンドイッチはおなかにこたえた。
私が搭乗予定の飛行機は14時発。ホステルを11時に出発すれば余裕である。チェックアウトを済ませ、ウーバーのアプリを立ち上げた。そこで難なく配車できるだろうと思ったが、アプリはダウンロードしただけだったので、認証コードの入力が求められた。認証コードはSMSで送られてくるらしいが、国際ローミングに対応していない私のスマホではSMSを受信することができない。これはまずい。配車できなれば、私はまさしく敗者になる。妙な緊張感で歯がうずく。んー、歯医者はどこだ。
ウーバーがダメなら、タクシーを呼ぼう。そう思って、インターネットで検索した。しかし、配車にはスマホの電話番号を入力する必要がある。こりゃあかん。誰かにヘルプを求めたいが、ホステルの受付には誰もいない。もう数日、オハイオ州立大学に残るO助教に何度かラインしてみたが、反応はない。おそらく会議中でラインに気が付いていないのだろう。出発時刻が迫りくる。ただ返事を待ちわびるわけにはいかない。こうなったら、やけくそである。筑波大学の関係者がどこかにいるかもしれない。私は希望を捨てずに、ミーティングで使った会議室を見て回った。まだまだ肌寒い季節。小走りでキャンパス内を右往左往する私の体からは湯気が立ち上っていた。
いやー、どこにもいない。もう、どうしようもない。私は冷や汗をにじませながらホステルに戻った。ホステルの受付には相変わらず誰もいない。もはや手の打ちようがない。詰んだ・・・と観念したところで、O助教からラインの着信があった。これは起死回生か。それとも予定調和か。どう表現しようが、そんなことはどうでもよい。私は自分でも手に取るようにわかるくらい動揺しながら、O助教に事情を説明し、車を手配してもらった。緊張が解けたのは空港に到着してからである。
これくらいのことで、ひゃーっと焦って、冷や汗をかくようでは、私はまだまだ青二才である。今回の出張のキーパーソン、材料工学が専門のS教授は経由地で飛行機に乗り遅れていた。その理由が、経由地へ向かう飛行機の遅延ではなく、経由地で乗るはずだった飛行機の出発時刻を搭乗時刻と勘違いしたためとのこと。同じ理由で乗り遅れたのは今回で2度目というのだから、肝が据わっている。
上には上がいるものである。今年はその高みを目指したい。
(2025年1月)
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