冷や汗小中学生の頃、修学旅行や林間学校の時期が近付くと、とかく胸が高鳴った。旅行までまだ1週間もあるのに、枕元に持ち物を準備して、出発を心待ちにしていた。中3の修学旅行ではグループ行動があり、心を寄せていた女の子と同じグループになったことを知ったときは卒倒し、なかなか寝付けなかった。グループ行動では、外国人に声をかけるという英語の課題があった。当時は日常生活で外国人を見かけることがほとんどなく、見も知らぬ外国人に声をかけるにはそれなりの度胸がいる。京都の町中を闊歩する外国人を前にグループの仲間はしり込みして、お互い譲り合う。そんな中、私は一瞬のためらいを振り切り、外国人に話しかけた。もちろん、あの子にアピールしたいという下心がなせる業である。まあ、それはともかく、当の私は必死である。話しかけた外国人はロサンゼルスの、親しみを込めて言うと「お巡りさん」だった。別れ際に名刺をいただいた。私ははじめて手にした、しかも英語で書かれた名刺に感激し、後日お巡りさんにお礼の手紙を書いた。その後、返事をもらったことは覚えているが、何が書いてあったかまでは覚えていない。鮮明に覚えているのは、件の女の子とは何事もなく卒業式を迎え、その子は女子高へ、私は男子校へ進学したことである。その日から30余年の月日がたった。昨年(2024年)は2月から3月にかけて5週間、週替わりで海外へ出張した。私にはもはや枕元に持ち物を準備する純真な心はかけらもなく、財布とパスポートさえあればなんとかなるだろうという大人の余裕、いや、いい加減な心持しかない。3泊4日であれば、シャツ、下着、靴下の3点セットを3日分、寝間着にする半袖Tシャツと半ズボン、洗面用具、そして財布とパスポートがあればよいので、出発当日に用意することすらある。スーツケースは煩わしいので、リュックにも手提げにも片掛けにもなる3ウェイのバックを愛用している。バックは機内に持ち込めるサイズなので、空港のターンテーブルで待ちぼうけを食うこともない。そのバックをお供に、ラオス、タイ、台湾、モンゴル、米国へ赴いた。毎週、出国と帰国を繰り返して大変ですね。周りの人はいつにもなくやさしい声をかけてくれる。それもそのはず。実は1月にフットサルで相手選手と激しくもない接触プレーで転倒し、右ひじを骨折、右腕全体がギプスでがっちりと固定されていたから、見るからに大変。で、実際に大変だった。しかし、幸か不幸か、10年ほど前にも右ひじの同じ部位を骨折し、同じく海外出張と重なっていたため、その経験が今回の出張でいきた。何事も経験が大事、無駄なことはない・・・かも。ちなみに、前回の骨折は労災によるもの。どんな仕事をして被災したのかと訝しく思われるかもしれないが、何のことはない。広さが東京ドーム約55個分、南北約4キロに及ぶ筑波大学のキャンパスでは自転車移動が不可欠。他所での会議に遅刻しないようにと、少々慌てて自転車の漕ぎはじめに立ち乗り状態でブレーキをかけたところ、落ち葉に滑って転落したのである。労働中の移動で被災したので、これは労災となる。労災は午前10時5分前に起きた。かなり痛みが強かったが、大学の附属病院の救急外来にウォークインするわけにはいかないと思い、当時は大学の保健センターに整形外科があったので、午後一番で受診することにした。しかし、受診できるのは先着15名まで。そのことを知ったのは保健センターに到着したときだった。少し早めに到着したつもりだったが、時すでに遅し。すでに列ができていた。幸い15名には達しておらず、受診に至った。診察の結果、大学病院での治療が必要とのこと。診察を終えた頃には整形外科の先生が大学病院へ戻る時間になっており、車に同乗させてもらえたのは幸いであった。大学病院では引き続きその先生が骨折部位をレントゲンで透視しながら、骨のズレを手で押して直す治療(徒手整復)をしてくださった。その後、ギプスで固定して、その日の治療は終了した。11月の日は短く、外は真っ暗。病院の受付も閑散としていた。支払窓口に人の列はなく、会計はすぐに済むと思った。しかし、当時の保険証はハガキより一回り小さな紙に印刷されたもので、携帯に向いておらず、携帯していなかった。そのため、窓口では治療費の全額が求められた。当時は今より現金払いが多く、それなりの現金を財布に忍ばせていたが、それでも十分でなかった。私は職員証を提示したうえで、翌日支払うことを約束した。しかし、口約束は通用せず、念書を書くよう指示された。利き手の右腕は「く」の字に固定されていたがそれでも書かなければならず、仕方なく左手でミミズの這ったような字で念書を仕上げた。大学の教員はこうも信用されていないのか。いや、大学病院のリスク・マネジメントはこうもしっかりしているのである。何はともあれ、出張中はいつもより人の優しさが感じられた。行く先々では何かと気を遣ってくださり、話題にも事欠かない。しかし、不自由は不自由である。右腕が固定されているため、食事は左手が頼り。これがまったく頼りにならない。しかし、食欲には抗えない。片手で勇ましくスプーンとフォークを操り、各種料理と格闘した。今回の出張ではプラスチックのフォークを持参した。それはなぜか。ステンレスのフォークは麺料理で思いのほか熱くなるからである。これは前回の経験と反省によるもので、今回は毎朝日替わり麺が供されるラオスの定宿でプラスチックのフォークが大いに活躍した。大変なのは食事だけではない。食後に歯を磨く。トイレでお尻を拭う。入浴時はギブス部分をビニール袋で覆い、頭や体を洗う。そして、タオルで体を拭く。これらを左手だけで行うのはなかなかしんどい。なかでも歯磨きが難しい。しかし、こういうときこそ電動歯ブラシが役に立つ。もしかしたら、いつもよりうまく歯が磨けていたかもしれない。さて、最後の出張国は米国。その頃には右腕に巻かれたギプスを半分に切断し、下半分を包帯で巻くようになっていた。そうなるとそれはもはやギプスではなく、シーネと言うらしーね。と、おやじギャグを発する余裕も元気も出てきた。なお、左手で右腕に包帯を巻くのは難しいので、古いソックスをシーネにかぶせ、簡単に着脱できるようにした。出張先はオハイオ州立大学。同大学は筑波大学の協定校のひとつで、今回は20名以上の教職員・学生が訪問した。出張中は全体ミーティングと個別ミーティングがあり、全体ミーティングでは各自が自己紹介を行った。自己紹介は相手を知るうえで大事だが、人数が多いと注意が散漫になりがち。出席者が40人いれば、1人1分で40分、1人30秒でも20分はかかる。ひたすら名前を聞き続けるので、それに飽きて、内職をする人が出てくる。笑いの一つでもほしいところである。そこで、私の番が回ってきたとき、一言こう述べた。「日本人は全米50州のなかでとくにオハイオ州になじみがあります。オハイオ、オハイオ、オハヨオ・・・」そして、最後にはオハイオ州立大学の皆さんがそろって「オハイオゴザイマス」と口ずさんでくれた。まあ、このギャグの是非はともかく、自己紹介の最中、パソコンに顔を突っ込んでいた何人かの出席者が顔を上げたので、耳目の「目」を集めるという点ではまずまずだったように思う。米国は車社会。公共交通手段がなかったり、不便だったりする地域では、生活者にとっても旅行者にとっても移動がとてもやっかいである。しかし、車を運転しない人にとって、ウーバーが救世主となる。ちなみに、乳児の救世主は乳母、年老いた女性は姥。私は乳母や姥にはお世話になってきたが、ウーバーにお世話になったことはなかった。だから、知識はゼロ。とりあえず、スマホにウーバーのアプリをインストールしておけば大丈夫だろうと思って、渡米前にそうしておいた。米国到着時は、すでに現地に到着しレンタカーを借りていた地盤工学が専門のM教授がポート・コロンバス国際空港まで迎えに来てくださった。そのおかげで空港ではあたふたせずに済んだ。宿泊先は、現地では移動が難しいだろうと、オハイオ州立大学のキャンパスから徒歩数分にあるホステルにした。全体ミーティングはキャンパスの外れの建物で行われたが、ホステルから3キロ弱の場所にあったので、徒歩で向かった。レセプションはコロンバス中心部のホテルで行われたが、時間に余裕があったこともあり、「街」を感じるため、都市計画が専門のO助教と徒歩で向かった。その帰りは、東大に留学経験のあるオハイオ州立大学の先生のテスラに乗せてもらった。その他の移動は誰かしらの車や誰かがウーバーで手配した車に乗ったので、自らウーバーを使う機会はなかった。そして、最終日。ホステルでは食事が出ないので、近くのサブウェイに出かけた。実はオハイオ州にも便利な地下鉄がある、というわけではない。サブウェイとは、サンドイッチを主力商品とするファストフードチェーンである。日本にも進出しており、私がはじめてサブウェイのサンドイッチを口にしたのは、今から30余年前の学部時代。UCLAから私の大学へ交換留学していた学生の調査を手伝っていたとき、彼からおごってもらった。場所は高田馬場だったような気がするが、記憶はあいまいである。サブウェイでは具材やソースなど細かな注文ができる。そこに付加価値があるのだろうが、注文し慣れていない人にとって、それはむしろハードルになる。注文したことがない私は、写真入りメニューのなかから好きなサンドイッチを注文した。当然、それでおしまいかと思った。しかし、女性の店員さんがパンの種類と長さを尋ねてきた。私はそんなこと言われてもという顔をしながら、どんな種類があるのか、サイズはどれくらいか尋ねた。すると、店員さんがいかにも気だるそうな表情と口調で説明してくれた。圧倒的なやる気のなさに、こちらが気疲れする。悩むことが許されない雰囲気のなかオーダーを終え、やれやれと思ったところ、次はどの野菜を入れるか尋ねてきた。ひゃー、もはや選ぶいとまはない。もう、こう答えるしかない ― a bit of everything(少しずつ全部)。しかし、これで終わりではなかった。最後の仕上げはソースである。私がソースについて説明を求めれば、その場の雰囲気は最悪になると予想された。そこで私は店員さんに尋ねた。「あなたのお勧めは何ですか」と。すると、雰囲気は若干好転し、店員さんが好きなソースを教えてくれた。そして、「オイルはかける?」と尋ねてくれた。それはおそらくルーチンの質問なのだろうが、私は勝手に店員さんの私に対する思いやりだと勘違いし、うっかりイエスと答えてしまった。が、後の祭り。オイルだらけのサンドイッチはおなかにこたえた。私が搭乗予定の飛行機は14時発。ホステルを11時に出発すれば余裕である。チェックアウトを済ませ、ウーバーのアプリを立ち上げた。そこで難なく配車できるだろうと思ったが、アプリはダウンロードしただけだったので、認証コードの入力が求められた。認証コードはSMSで送られてくるらしいが、国際ローミングに対応していない私のスマホではSMSを受信することができない。これはまずい。配車できなれば、私はまさしく敗者になる。妙な緊張感で歯がうずく。んー、歯医者はどこだ。ウーバーがダメなら、タクシーを呼ぼう。そう思って、インターネットで検索した。しかし、配車にはスマホの電話番号を入力する必要がある。こりゃあかん。誰かにヘルプを求めたいが、ホステルの受付には誰もいない。もう数日、オハイオ州立大学に残るO助教に何度かラインしてみたが、反応はない。おそらく会議中でラインに気が付いていないのだろう。出発時刻が迫りくる。ただ返事を待ちわびるわけにはいかない。こうなったら、やけくそである。筑波大学の関係者がどこかにいるかもしれない。私は希望を捨てずに、ミーティングで使った会議室を見て回った。まだまだ肌寒い季節。小走りでキャンパス内を右往左往する私の体からは湯気が立ち上っていた。いやー、どこにもいない。もう、どうしようもない。私は冷や汗をにじませながらホステルに戻った。ホステルの受付には相変わらず誰もいない。もはや手の打ちようがない。詰んだ・・・と観念したところで、O助教からラインの着信があった。これは起死回生か。それとも予定調和か。どう表現しようが、そんなことはどうでもよい。私は自分でも手に取るようにわかるくらい動揺しながら、O助教に事情を説明し、車を手配してもらった。緊張が解けたのは空港に到着してからである。これくらいのことで、ひゃーっと焦って、冷や汗をかくようでは、私はまだまだ青二才である。今回の出張のキーパーソン、材料工学が専門のS教授は経由地で飛行機に乗り遅れていた。その理由が、経由地へ向かう飛行機の遅延ではなく、経由地で乗るはずだった飛行機の出発時刻を搭乗時刻と勘違いしたためとのこと。同じ理由で乗り遅れたのは今回で2度目というのだから、肝が据わっている。上には上がいるものである。今年はその高みを目指したい。(2025年1月)2025.01.10 15:00
懐かしの味を求めて懐かしの味といえば、おふくろの味。私のおふくろの味と言えば、1つだけ選ぶのは難しいが、今何を食べたいかと問われれば、春巻である。えっ、私のおなかにはもう入らないって。それは腹巻である。胃腸が弱かった私は、小さかった頃、腹巻をして布団にもぐった。そんな弱い胃腸だったが、揚げたての春巻をいくつも頬張った。母がつくる春巻の具は下味がしっかりついているので、何もつけずに食べてもおいしい。外はパリパリ、中はしっとり。ビールのお供に最高である。と、子どもの私は知る由もない。春巻の命はあのパリパリ感。しかし、私が包んだ春巻はなぜかしっとり。私はしょんぼり。それは、揚げあがりを想像することもなく、具沢山にした結果であった。大人になって、そんなことを思い出し、ふと思う。先を見通さないことも大事かも。昨年(2023年)11月、タイへ出張した。いつもはバンコクを素通りして、タイ東北部やラオスへ赴くことが多かったが、今回は所用でバンコクに立ち寄り、1泊することになった。私はときめいた。バンコクで、あの子と再会できるかもしれない、と。私はあの子の居場所を突き止めるため、渡航前にインターネットの荒波に飛び込んだ。そして、驚いた。あの子の情報はここかしこに掲載されている。そんな有名になったのか。私の手が届かない存在になってしまったと思うと、バンコクを素通りしたくなる。そんなわけない。あの子とは、タイ北部のラーメン「カオソーイ」である。私がカオソーイと出会ったのは、今から20余年前、タイ第2の都市、北部の古都・チェンマイでのこと。私はその当時、とある国立病院の研究所に流動研究員として勤務していた。流動研究員とはその名の通り、流動的な有期雇用の研究員。英語ではリサーチ・レジデント。研修医はレジデントと言われるので、リサーチ・レジデントは研究員見習いみたいなものである。その病院には国際医療協力を専門とする部署があり、海外で実施されている日本政府の国際協力プロジェクトや国際機関に専門家を派遣していた。そのなかで私が関心を寄せたのは、国際協力事業団(JICA:現・国際協力機構)がタイ北部で実施していた「エイズ予防・地域ケアネットワークプロジェクト」である。私がタイの大学院に留学していた1996年、タイではHIVの新規感染者数がピークに達し、予防はもとよりケアの拡充が課題となっていた。とくにタイ北部は感染者が多く、チェンマイでは10人に1人が感染していると推定されるほど、感染は広がっていた。その背景には貧困がある。と、もっともらしく指摘されていたが、話はそう単純ではない。たとえば、こういうことがあるらしい。かつてのタイ北部では(今もそうかもしれないが)娘が家族の世話をして、親もそれを期待しており、家計の苦しい家族は娘を都市部へ出稼ぎに出すのが習わし。そして、一部の女性は性産業に吸収されていく。一方、母系社会の色彩が強いタイ北部では、結婚すると男性が女性の家に入る。婿養子のポジションで窮屈を感じる一部の男性は性産業で興じる。貧困という言葉だけでは言い表せない事情で感染が拡大したのだ。さて、件のプロジェクトは、JICA「ODA見える化サイト」によると、「HIV・エイズに対処する保健人材の育成やケアシステムの確立とともに、コミュニティによる啓発活動の促進を支援」するもので、「これにより、新たなHIV感染者数の減少と、感染者およびその家族の生活の質の向上に貢献しました」とある。このプロジェクトは私が流動研究員になる少し前にはじまったばかりで、私の上司が関わっていたこともあり、プロジェクトの資料を目にしていた。そこで私が気付いたのは、プロジェクトの最終目標である「生活の質の向上」を測定する尺度が準備されていなかったこと。だったら、私が準備しようと、HIV感染者の生活の質を測定する尺度が、タイよりHIV感染が先に進んでいた米国でつくられていたため、そのタイ語版をつくることにした。というわけで、私はチェンマイを訪れたのである。私はタイ保健省・感染症予防局の地域事務所に共同研究を申し入れ、地域事務所の看護師2人が数日間、いろいろと面倒をみてくれた。しかし、そのときの記憶は断面的にしか残っておらず、ここに満足に記すことはできない。ただ、バンコクへ戻る日のことだけは鮮明に覚えている。その日が強烈だったから、ほかの日の記憶が飛んでしまったのか。その日、バンコクには午後の飛行機で戻る予定だった。ならばと、看護師2人が早めのお昼ご飯に誘ってくれた。私はフェアウェル・ランチに心躍らせ、ホテルのロビーで2人の到着を待っていた。そして、待ち合わせ時間が少し過ぎたそのとき、ホテルの外に妙な気配を感じた。なんだか物々しい。私はロビーを飛び出し、腰を抜かした。なんと2人は軍用車然とした幌なしのジープでホテルにやってきたのである。ジープを運転してきたのは、2人のうち、私が見下ろすくらい小柄な女性。彼女の見事なハンドルさばきで颯爽と向かったのは、地元で人気のカオソーイ屋である。私はここでも腰を抜かした。席に着き、注文後しばらくすると、はじめて見る色と香りのラーメンが目の前に現れた。そして、まずはスープを一口。おいおい、なんだ、なんだ、なんだ。このうまさは!カオソーイの特徴は何といってもココナッツミルクのカレースープ。そんな説明では平たく聞こえてしまうが、味は分厚く、まろやかさのなかに、さわやかな辛さを感じる。その見た目はレッドカレーを乳白色で染めたような、優しさが見え隠れするが攻撃的な色合い。もしかしてスープが主役?と思わされるくらいの存在感。一方、麺も負けていない。カオソーイには茹でた平麺に、なんと揚げ麺がトッピングされる。何ともサービス精神旺盛ではないか。見た目も華やかである。濃厚なスープと戦うには、茹で麺と揚げ麺のコンビで立ち向かうしかないのだろう。役者は麺とスープだけではない。カレースープに染まりきった鶏の手羽元が揚げ麺に寄りかかるよう、ドーンと載っている。また、その脇には口直しになる高菜漬けが厳かに添えられている。これは、クマさんに言わせれば、まさにゲージツである。カオソーイの役者たちは仲良く私に飲み込まれ、私はその刺激的なうまさに卒倒した。こんな興奮する私は、そっとしておいて。その日以来、カオソーイの大ファンになった私は、その味を求めて、日本でタイ料理屋へ行く機会があると、メニューにカオソーイがないかチェックするようになった。そして、今から何年も前に、自宅から徒歩圏内にオープンした(しかし、今はもうない)タイ料理屋でメニューにカオソーイを見つけた。店員はタイ人である。料理人もおそらくタイ人だろう。カオソーイを注文しないわけにはいかない。そして、胸の高鳴りを抑えながら、恋人さながらにカオソーイを待つ。しかし、目の間に表れたのは、予定調和的な話の流れだが、カオソーイとは似ても似つかない代物だった。え、これで1000円。僕はそれ以来、君を忘れることにした。それから10数年。僕が君を忘れるはずないじゃないか・・・。そんな身勝手な私は、バンコクでカオソーイと再会することにしたのである。待ち合わせ場所は、宿泊先のホテルから徒歩圏内のレストラン。レストランの評価は上々である。私はホテルでチェックインを済ませ、荷物を部屋に置くやいなや、レストランへ足早に向かった。しかし、非情にもレストランは閉まっていた。私はしまった。そんなことはよくある話。めげることはない。私は翌日、午後便でタイ東北部のコンケンへ向かう予定だったので、その前にランチを、と思ってレストランを再訪した。が、非情にもレストランはクローズ。私は苦労す。レストランのドアには貼り紙がしてあり、どうやら何日から何日までお休みとタイ語で書いてある。前日、私はその貼り紙を見落としていたのである。さあ、これからどうするか。身勝手な私はバックアップを用意していた。そのレストランはホテルの最寄駅から3駅先にある、なんとミシュランガイドにも掲載されたことがあるレストラン。といっても、店構えは華美でなく、少しおしゃれなラーメン屋といったところである。幸い席が空いていたので、着席してメニューに手を伸ばす。私は迷うことなく、カオソーイを指名。そして、数分すると、かの愛しのカオソーイがやってきた。私は抱きしめたい気持ちを抑え、カオソーイのスープを口にした。続いて、麺。そして、手羽元も。追い求めていたのは確かにこの味だ。しかし、なんだか腑に落ちない。間違いなく美味しいのに、20余年前の感動には遠く及ばない。すこぶる美味しいのになぜ・・・。私は気が付いた。初恋の味は二度と味わえないのだ。(2024年1月)2024.01.10 15:00
コロナ禍の自由研究2020年3月、ドタバタとインドネシアへ出張した(その顛末は「久しぶりの海外出張 ~相変わらず「いい加減」が楽しい~」を参照)。現地にもう数日滞在していたら、帰国できなくなっていたかもしれなかったが、無事帰国することができた。と思っていたのも束の間、私が所属する医学医療系の長(医学部・医学系研究科長に相当)から「インドネシアへ出張していましたよね。1か月間、自宅待機する必要がありますよ」と連絡があり、あえなく在宅勤務となった。その後も在宅勤務が推奨され、在宅の日々が続いた。私は実験室で研究をしているわけではないので、個人情報を扱う仕事以外であれば、場所を選ばす仕事ができる。出退勤の途中で、ふと思いついたり閃いたりすれば、公園や駅のベンチでパソコンを開き、メモをとったり論文を書いたり、それが1、2時間続くというようなことは新型コロナの感染拡大前でもときおりあった。そのおかげもあって、在宅勤務でも研究にそれほど支障はなかった。陽気がよいときは、自宅のベランダや公園で長時間を過ごした。コロナ禍で進んだ「働き方改革」でもっとも助かったことは、会議のオンライン化である。私が勤務する大学は組織が複雑に入り組んでいることもあり、会議が多い。そのため、オンライン化によって移動時間がなくなったのは衝撃的でさえある。実は私の研究室がある建物はキャンパス内の医学地区から少し離れており、医学地区の会議室までdoor-to-doorで徒歩だと15分、自転車でも10分は見込んでおく必要がある。それでも会議室に到着するのは開始時間ギリギリ。1日に医学地区で会議が3つあるときは、往復するだけで1時間半、路上を右往左往することになる。それはそれで運動になってよいが、雨の日は大変である。会議のオンライン化で日程調整が楽になったのも大きなメリットである。これまでは、たとえば10時から11時まで会議があれば、11時から会議の予定を入れることはできなかった。しかし、オンラインだと移動の必要がないので、それが可能である。また、出張中でも会議に出席できる。まあ、それがよいかは別として、その結果、出席率も向上した。そんなことを事務職員に話したら、事務サイドでは会議の配布資料の準備が楽になったとのこと。これまでは大量の資料をコピーしたり、それでは紙の無駄なので、資料を取り込んだiPadを机上に配布したりしていて、それが大変だったらしい。それが今や資料のPDFをTeamsにアップしておけば、それでよし。業務量は雲泥の差である。私としてもPDFの保管は楽で、必要なときに簡単に参照できて助かる。紙の束で埋め尽くされた保管庫はもう必要ない。会議によっては絶対に対面でなければならないこともあるが、それ以外の会議は今後もオンラインでよい。感染拡大の終息が見えないなか、「働き方改革」の恩恵を受けてきたが、海外での研究活動が停滞してしまったことには大きなフラストレーションを感じ、私の体は有り余ったエネルギーで膨張していた。というのは、ちょっとおおげさで、実際に膨張していたのは腹囲だった。そんななか、第31回日本疫学会学術総会にオンラインで参加し、シンポジウム「新型コロナウイルスが変えた社会 タバコ対策の視点から」でT先生の講演に心地よい刺激を受けた。講演内容は詳しく覚えていないが、私も何かしなければ・・・と心を揺さぶられたのである。海外での研究活動はしばらく再開できそうもないのだから、いつもの研究テーマから離れて、自由研究も悪くないか、と思った私は講演を振り返った。講演で学んだことは、日本が加熱式たばこ市場のターゲットになっていること、コロナ禍で喫煙者の喫煙量が増え、加熱式たばこに切り替えた喫煙者において禁煙が進んでいないこと。そこで、私はたばこ産業の広告戦略ににらみを利かせた。たばこ広告に何か秘密が隠されていないか、と。研究の対象が人ではなく広告であれば、倫理審査の必要はない。広告のデータさえあれば、研究はすぐにでもはじめることができる。しかし、その肝心のデータをどのように集めればよいのか。しかも、研究費はない。そこで大いに頭を悩ますはずだった。が、インターネットで検索したところ、間もなく、新聞・雑誌広告の出稿量やその内容に関するデータベースをつくって、データを提供したり分析したりする会社があることがわかった。私は早速、会社のウェブサイトが明瞭なM社に電話した。2021年1月29日午前のことである。シンポジウムはその前日の午後にあったので、当時の私はよほどエネルギーが有り余っていたのか、それとも単なるせっかちか。私はM社に研究の目的や意義、必要なデータについてメールで追加説明したうえで、臆面もなく、学術目的のためデータを無償でご提供ください、とお願いした。すると、その3日後(2月1日)、なんとデータが届いた。私はM社のご厚意に心より感謝し、感謝の気持ちを形にすべく、ご提供いただいたデータを以下の2編にまとめた。1編目は2月9日、2編目は2月11日までに執筆し、M社にお送りした。もちろん、学術誌にも投稿した。Intensified advertising of heated tobacco products in Japan: an apparent shift in marketing strategy. Tob Control. 2023 Jan;32(1):130. doi: 10.1136/tobaccocontrol-2021-056615. Epub 2021 May 24.Tobacco advertising during the COVID-19 pandemic in Japan. J Epidemiol. 2021 Jul 5;31(7):451-452. doi: 10.2188/jea.JE20210151. Epub 2021 Apr 23.1編目ではタイトルの通り、たばこ広告の宣伝内容が紙巻きたばこから加熱式たばこに置き換わったこと、2編目ではコロナ禍においてステイホームが推奨されるなか、たばこ広告の総面積、またその全広告に占める割合も増えていたことを指摘。ここではその議論に踏み込まないが、たばこ産業の広告戦略を垣間見た。2021年4月、新しい年度に入っても、海外での研究再開のめどは立たない。私のエネルギーは、いや、腹囲はますます膨張するばかり。そのエネルギーを発散すべく、今度は公開データをもとに以下の2編を執筆した。Are tobacco prices in Japan appropriate? an old but still relevant question. J Epidemiol. 2022 Jan 5;32(1):57-59. doi: 10.2188/jea.JE20210416. Epub 2021 Nov 25.Japan's position in the global standard to ban tobacco advertising in the media. J Epidemiol. 2022 Jul 5;32(7):354-356. doi: 10.2188/jea.JE20220074. Epub 2022 May 21.1編目は、日本で2018年から2021年にたばこ税の増税があったため、それに絡めて、日本のたばこの価格は適正かを問うたもの。日本では、たばこの値段が一人当たりのGDPに比して極めて安く、OECD諸国の中で2番目に安い(1番目は一人当たりのGDPが飛びぬけて高いルクセンブルク)。2編目は、2022年2月にスイスが国民投票でたばこ広告の全面禁止を決めたことに絡めて、日本のたばこ広告規制が世界的にどれだけ遅れているかを示したもの。説明するのが嫌になるくらい、ずば抜けて遅れている。これまで紹介した4編のうち、Tobacco Control誌に掲載された1編はResearch Letter、それ以外はLetter to the Editorなので、それぞれのテーマについてデータに基づき論じているものの、原著論文ではない。したがって、研究業績として評価してもらえるものでもない。それでも、Letterを執筆したのは、エネルギーを発散するため、いや、それもあったが、日本の実態を世界へ知らしめるため、そして、たばこ研究者を応援するためでもあった。たばこ研究者を応援するとは、こういうことである。学術論文を書くとき、論文の緒言(Introduction)で研究の背景や意義について説明する必要がある。そこで欠かせないのが文献の引用。科学論文では些細な説明でもその根拠を示す必要があるため、引用の連続となる。もちろん、引用といっても文献の記述を書き写す(コピペする)という意味ではなく、説明の真偽を確認することができる情報源を示すということである。たとえば、「日本では他国と比べて、たばこ価格は安く、たばこ広告の規制が不十分である」と説明する場合、たったそれだけでも、それぞれの根拠を示す必要がある。根拠がなければ、そのような説明はできない。したがって、Letterでも根拠になるものがあると大いに助かる。というのが私の考えで、「応援する」という意味である。ちなみに、Letterは学術誌に掲載されるものなので、査読を経て掲載されている。そういえば、コロナ禍の自由研究で思い出した!今から20年前の2003年、中国、香港、台湾、シンガポールを中心に重症急性呼吸器症候群(SARS)が世界的に流行した。そのときにも(2年遅れで)以下のLetterを書いていた。その頃もエネルギーが有り余っていたのかもしれない。Lowered tuberculosis notifications and deterred health care seeking during the SARS epidemic in Hong Kong. Am J Public Health. 2005 Jun;95(6):933-4. doi: 10.2105/AJPH.2004.046763.この自由研究は、香港でSARS流行期に受診控えが起きていたかもしれないと指摘したもの。Am J Public Healthの目次に目を通していたら、台湾の研究(「全民健康保険」のデータをもとに分割時系列分析でSARS流行期の受診控えを示した原著論文)に目が留まり、同じことが他国でも起きているかもしれないという素朴な疑問に答えるために行った自由研究である。さて、香港に共同研究者がいるわけではないのに、なぜできたのか。答えは簡単。香港保健省のウェブサイトに法定感染症の報告数が掲載されていることを突き止めたから。そして、こちらのほうが大事かもしれない。人びとの受療行動が法定感染症の報告数にある程度反映されるだろうと思いついたから。研究としては粗削りだが、お金がかからない自由研究として楽しむ分には悪くないだろう。2023年5月から新型コロナの感染症法上の位置づけが2類相当から5類に引き下げられた。コロナ禍は過去の言葉になりつつある。(2023年5月)2023.05.17 15:00
久しぶりの海外出張 ~相変わらず「いい加減」が楽しい~今年(2022年)11月上旬、久しぶりに海外へ出張した。最後に海外へ出張したのは2020年3月。当初は英国の共同研究者と一緒にモンゴルへ出張する予定だった。しかし、新型コロナの感染者が中国で増え始めると、モンゴル政府は1月下旬、国内で感染者が出る前に国境を封鎖した。2月下旬には国際線が再開するとの情報もあったが、感染状況はまったく好転せず、渡航は断念せざるを得なくなった。出張先はインドネシアへ変更した。実はその頃、私の研究室のインドネシア人留学生が調査を実施するため、インドネシアに帰国していたのだが、新型コロナの影響で調査が滞っていた。私が現地へ赴いたところで打開策が見つかるとも限らなかったが、現地の状況を見ないことには何とも言えず、ひとまず渡航することにした。その話は別の機会に。今回の出張先はタイの地方都市、コンケン。首都バンコクから飛行機で約1時間、タイ東北部に位置する。コンケンはタイ語ではコーンケーンとかコンケーンと発音するようだが、耳をすませば、なんとなく行きたくなる地名でもある(来んけん?)。10月31日11時45分、成田発バンコク行きのタイ航空に搭乗するため、10時少し前に成田空港に到着した。しかし、すでにチェックインカウンターの前には長蛇の列。一瞬、ウェブチェックインを済ませておけばよかったと思ったが、そういうときは人間観察も悪くない。あたりを見回すと、カウンターの傍らには重量超過のスーツケースを広げ、重量を減らそうと荷物と格闘するタイ人のオバちゃんたちの姿が。日常が戻りつつあることを感じる。機内はほぼ満席。国際線では座席は通路側に限る。大切なのは、中央列の右側の通路側であること。通路側が大事なのは、お察しの通り、席を立ちやすいから。それでは、なぜ中央列か。それは機内の座席が3-4-3あるいは3-3-3の配列の場合が多く、中央列であれば、席を立つ必要があるのは隣の乗客が立つときだけだからである。窓側の列の場合、隣の席が2つあるので、それだけ立つ機会が増える。もっとも、こちらは通路側なので至極気楽。しかし、窓側の乗客は席を立つのを遠慮しているのではないかとこちらが気をもんでしまう。というわけで、中央列がよい。ただし、窓側の列が悪いかといえば、そうとは言い切れない。20代半ば、英国へ留学した際、その頃は中央列の良さを知らずに、行きも帰りも窓側の列の通路側の席をとった。そして、行きも帰りも隣とその隣の乗客は女性同士のお友だち。格安航空券で大韓航空を利用したので、インチョン経由だったが、インチョンからロンドンまでの所要時間は10時間以上で長旅となる。私は席に着くやいなや、隣席の女性に、席を立ちたいときは私が寝ていても遠慮せずにたたき起こしてくださいね、と笑顔を振りまいた。実はそれが縁で交際に発展しました、という人はいるかもしれないが、私にはその気もなく(いや、相手こそ、その気は毛頭ないだろうが)、お互いに持参していたお菓子を交換したりして、楽しい旅路となった。もちろん、そのようなサクセスストーリーばかりではない。巨漢の男性がひじ掛けを上げて、私の座席まで(私が支払った運賃の1割くらい)肉をはみ出させてくるようなこともあった。現実は厳しい。さて、中央列の通路側の良さは分かったと思うが、なぜ右側の通路側か。それは何を隠そう(いや、見ての通り)私が右利きだからである。私は機内食を口にするとき、隣の乗客にひじがぶつからないよう、「小さく前へならえ」の姿勢になる。そして、ひじから先の腕と手を操作し、食べものが入ったプラスチック容器の蓋を開け、まるでクレーンゲームのように食べものを顔の投入口に運ぶ。我ながら見事である。しかし、アルコールが入り、気が緩むと脇が甘くなり、利き腕のひじがはみ出る。そのような場合、右側の通路側に座っていれば、隣の乗客に迷惑をかけることがなく、安心である。ただし、注意事項が2つある。1つは、キャビンアテンダント(CA)が押すミールカートが通過するとき。それほどスピードが出ていなくても、ひじがぶつかると打ちどころによってはかなり痛い。これは何度か経験した。もう1つは、CAさんが配膳中に自分の隣りで止まったときである。ひじでお尻を突っつくことになるのは想像に難くない。しかし、配膳で体を方向転換させるCAさんが自らお尻を激突させてくることもあるので、こちらの自意識過剰といえば、それまでだ。ちなみに、これも何度か経験させていただき、こちらは何度ぶつかっても痛くない。機内でそうこうしているうちに、バンコクに到着した。コンケンでは入国手続きができないため、バンコクで一度入国してから、国内線に乗り換える。入国審査のブースにも長蛇の列。バンコクの空港も日常を取り戻したようである。私は他の乗客と同じように長蛇の列のあとに続き、そこでも人間観察を行っていた。すると、いくつかのブースに審査官がやってきて、並ぶことのできるブースが増えた。すると、乗客の列は鞭を打たれた蛇のようにうねり、新たな列がうまれ、私もその列に並び直した。しかし、それでもブースまではまだ遠い。ブースの向こうを眺めながら、なんとなく追憶にふけった。タイへはじめてやってきたのは18の春・・・。しかし、そんなノスタルジーの世界から一気に現実世界へ呼び戻された。「皆さんのお並びの列の審査官は17時で帰宅するので、別の列へお並びください」と空港の係員。日本的感覚だと、17時でブースを閉めるのであれば、その時間に終わるように乗客の列をコントロールするに違いない。この計画のなさ、見事である。入国審査が終わり、国内線のカウンターでチェックインを済ませた。そして、国内線の保安検査場へ向かうと、その入り口で係員が乗客の搭乗券と身分証明証の確認をしていた。私は少しばかり距離を開けて、前に並んでいる乗客に続いた。すると、そこにオバちゃん2人組が割り込んできた。オバちゃんは私が並んでいたことに気が付かなかったようで(いや、私に気が付かないほど、私と前の乗客との間に距離があったとはいえないが)、私に気が付くと「どうしましょうか」というような顔をする。私は「どうぞ、どうぞ」と手を差し出し、列を譲った。こういうときは、紳士ぶって気持ちよく譲るのがよい。気持ちに余裕が生まれて、搭乗券と身分証明証を手元に用意せず、もたもたするオバちゃんたちを見守る気にもなれる。そんな私に屈強な男性係員が手招きをしてきた。身長180センチの私よりも大柄で、横にもかなりある。何かなと思いつつ、その係員に近寄ると、係員が規制線(ベルトパーティション)のベルトを外し、中へ入れと言う。ワイロを要求されるのか・・・。もちろん、そんなことはなく、私の搭乗券とパスポートを確認すると、係員は笑顔で私を保安検査場へ送り出してくれた。どうやら私の一連の行動を観察していたようで、私に便宜を図ってくれたようである。このやさしさといい加減さ。うーん、たまらない。人のやさしさに触れると、もっと癒されたいと欲が出るのか、食欲が出てきた。国内線のレストラン街にたどり着くと、レストランはどこもほぼ満席。入れなくもないが、搭乗までそれほど時間に余裕はなく、注文したものがなかなか出てこないという事態は容易に想像できる。旅はまだ続くので、面倒は避けたい。そこで目に入ったのは、コンビニのセブンイレブンである。タイの街中ではセブンイレブンをしばしば見かけるが、空港でも幅を利かせていた。私は早速、そこで簡単に食べられるものを買うことにした。タイのセブンイレブンは日本のセブンイレブンと同じような品揃えで便利である。お弁当もあり、いくつか手に取ってみた。ガパオライスやパッタイなど定番メニューが揃っており、ボリューム感はないが、小腹を満たすにはちょうど良いサイズ。見た目も悪くない。ちなみに、ガパオライスはガパオがホーリーバジルを意味するので、日本語ではバジル炒めご飯と称される。しかし、その実態はそぼろご飯である。ただし、そぼろ肉は豚ひき肉をバジル、唐辛子、ナンプラーなどで炒めたものなので辛くて香ばしく、そぼろ肉の上には揚げた目玉焼きがトッピングされるので、日本のそれとは味も見た目も異なる。ガパオライスがそぼろご飯であれば、パッタイは焼きそば。パッタイの麺は米粉の平打ち麺で、味付けは日本の焼きそばと異なるが、焼きそばといえば焼きそばである。ガパオライスもパッタイも日本人の味覚に合うと個人的には思っている。コンビニの弁当としては、パッタイよりガパオライスのほうがハズレはないような気がして、小腹を慰めるべく、ガパオライスを購入した。レンジでチンしてくれたガパオライスには、プラスチックのスプーンとフォークのほか、お手拭きまでついてきた。いい加減さが感じられないって? 確かにそれら3点セットは店員の気配りで(いや、マニュアル通りに)つけてくれた。しかし、である。私がお会計の際にスプーンとフォークをつけてくださいと店員に頼むと、弁当の入ったレジ袋に入れてあるとの返事。そうかそうかとレジ袋の中身を確認したが、スプーンとフォークは見当たらない。店員の勘違いかもしれないと思って、もう一度頼むと、入っているとの返事。私は首をかしげて、弁当の入ったレジ袋の下に手を添えた。ん、凸凹。スプーンとフォークは弁当の下に敷かれていたのである。さて、弁当を買ったはいいが、イートインのスペースがあるわけではない。皆さんならどうするだろうか。私は誰構わず、通路のイスに座って手を合わせていただきます、と相成る。ほーら、斜め向こうには空港の従業員が通路のイスでカップラーメンをすすっている。しかも、その脇では従業員が横になっている。これが空港であっても日常の光景である。タイ人がそうしているから、何でもありというわけではない。しかし、いい加減であるということは融通が利くということでもあり、それによって助かることもある、と言いたい。まあ、言い訳はその辺にして、味はどうだったか。これが美味。粘り気のない長粒米はスパイスが効いて少し汁気が残ったそぼろとの相性がよく、私の小腹は、小腹というわりに見た目はかなり太いが、大いに満たされた。19時45分、ほぼ定刻通りコンケンに到着した。手荷物は機内持ち込みの小さなバックしかないので、手荷物受取所は素通りして、出口に向かった。今回はホテルに送迎を頼んでおいたので、15分ほどでホテルに到着できる。自動ドアが開き、お迎えの列を見渡す。ホテルの看板をもった人が・・・いない。まあ、これは想定内で、少し離れたところにいるかもしれいないと思って、あたりを一周。しかし、見つからない。そうか、もしかしたら、空港に到着していないだけかもしれない。そう思って、イスに腰を掛け待つことにした。そして、イスに近寄ると・・・、いるじゃないか。ホテルの看板をイスの上に置いて、スマホをいじる運転手がそこに。運転手は悪びれる様子もなく、ニコニコしながら、私を車まで誘導した。このいい加減さ、快感でさえある。今回の宿泊先は、約20年前はじめてコンケンを訪問したときに宿泊したチャルーンターニー・プリセンス、いちおう4つ星とランク付けされた大型ホテルである。プリセンスとはいえ、20年も経過しているので、見た目はかなりくたびれていている。おまけに新型コロナの打撃を受けて、なんとホテルは売りに出されていた。一時は新型コロナの感染者の療養施設として利用されたようであるが、もはやその後ろ盾はない。ホテルに着き、先に到着していた共同研究者のN先生とロビーで落ち合った。年上のN先生とは20年あまりの付き合いである。ロビーに降りてきたN先生は500mlの缶ビールを手にしていた。年下の私に気遣って、ウェルカムドリンクを用意してくれたようである。話を聞くと、すでに現地の共同研究者とたらふく夕飯を食べてきた、というか、食べさせられ、飲みきれないからこの缶ビールをどうぞ、とのことだった。理由はどうであれ、キンキンに冷えたビールを手にすれば、笑みもこぼれる。夕飯がてら明日以降の予定を打ち合わせたかったが、細身なのにお腹が破裂しそうなN先生を夕飯に連れ出すのは悪いので、ロビーで打ち合わせることにした。それにしても、テーブルの上で汗をかきはじめた缶ビールが気になって仕方ない。タイの代表的なビールといえば、シンハー・ビール。タイではビア・シンと呼ばれる。ビア・シンと同じくらい愛されているのがビア・チャーン。N先生が用意してくれたウェルカムドリンクはビア・チャーン。グラスでちゃーんと飲みたいが、グラスはない。そわそわする私にN先生は「市川さん、飲めば」と鶴の一声。いちおう4つ星ホテルなので、ロビーで缶ビールはちょっと遠慮したほうがよいかなと思いつつ、古びたロビーはラウンジの機能を果たしておらず、タイならこれは許容範囲かなと思っていたところだったので、私はN先生に向かって首を縦に振り、缶ビールのプルトップを引き上げた。そして、その音がロビーに鳴り響いた。案の定、受付嬢は我関せずという様子。打ち合わせを終え、N先生は自室へ戻り、私は夕飯に出かけた。道すがら、ずいぶん前にコンケンを訪れたときのことであるが、キッチンカーでケバブサンドを買って一杯やったのを思い出した。今晩はそれだと思って、キッチンカーへ向かった。ところが、そのキッチンカーがない。私の読みは甘すぎた。新型コロナの影響を考えれば、なくて当然。そもそもキッチンカーは動くものである。なんとしたことか、この初歩的な読み違い。意気消沈しながら、テクテクとホテルへ引き返した。路上には果物やラーメンの屋台が出ていたが、果物でビールとはいかず、ラーメンでは締めになってしまう。しかし、転んでもただでは起きない。私はふと思いついた。そうそう、あるじゃないか、あれが。セブンイレブンのガパオライスが! なんとしょぼい、と思うかもしれないが、あの辛いそぼろがビールにぴったりである。私は自分の思い付きに大いに納得して、ホテル近くのセブンイレブンでガパオライスとビールを買って、ホテルの自室へ急いだ。こうして私の出張1日目がはじまった。日付は11月1日になっていた。(2022年11月)2023.01.04 15:00
病院外心肺停止の発生場所とAEDの設置場所からAEDの適正配置を考える緒言 病院外心肺停止(Out-of-Hospital Cardiac Arrest:OHCA)の救命にはバイスタンダー(その場に居合わせた人)による早期の心肺蘇生が有効であり、2004年7月からバイスタンダーによる自動体外式除細動器(Automated External Defibrillator: AED)の使用が可能となったが(バイスタンダーがAEDを使用する行為をPublic Access Defibrillation: PADという)、2014年度中のPAD実施率は1.3%に留まっている。PAD実施率が低い理由として、OHCAの多くはAEDがない住宅で発生していること、既存のAEDは夜間・休日に使用できないことなどが指摘されている。これらの問題に対し、AEDへのアクセスを改善するため、24時間使用可能で場所の認知度が高いコンビニエンスストアにAEDを設置する自治体が増えているが、適正な配置といえるかどうかは不明である。目的 OHCAの発生場所、AEDの設置場所をデジタルマップ上にポイントデータ化し、コンビニエンスストアにAEDを設置することでどの程度バイスタンダーのAEDへのアクセスを改善し得るのかを地理情報システムを用いて検証すること。方法 本研究は埼玉県三郷市の既存データを用いた横断研究である。対象症例は2013年1月1日0時00分から2015年12月31日23時59分までの間に三郷市消防本部へ通報があり、救急隊によって医療機関へ搬送された393件。設置された各AEDを中心に、3分で往復可能な距離とされる半径150mの円形範囲(至適範囲)を設定し至適範囲内で発生したOHCAの件数と割合を算出し、コンビニエンスストアにAEDが設置されている場合と設置されていない場合で、発生場所ごとに時間帯別、曜日別に比較行う。研究実施者1. 市川 政雄(筑波大学医学医療系)2. 橋本 幸一(筑波大学医学医療系)3. 藤江 敬子(筑波大学医学医療系)4. 堀 愛 (筑波大学医学医療系)5. 高山 祐輔(筑波大学大学院人間総合科学研究科)問い合わせ先筑波大学大学院人間総合科学研究科国際社会医学研究室高山 祐輔E-mail:takayama54200@gmail.com2017.10.20 04:50
トイレの中心で頭を悩ませるアジアへ出かけるようになってから、しばらくトイレにはまった。はまったといっても、そのはまったではない。関心をもった、ということである。トイレは私たちの生活と切っても切れない関係にある。だから、その様式の違いが実に面白い。今や私たちの生活に欠かせないウォシュレット。私のウォシュレット初体験の場所は、実は日本ではない。フィリピンである。しかも、2種類のウォシュレットを体験してしまった。学生時代、上総掘りという日本古来の井戸掘り技術で井戸を掘る活動のため、年に2,3回フィリピンを訪問していた。その活動に注力するため、大学2年を終えた二十歳の年には大学を休学した。数年前に東大がはじめたギャップイヤーみたいなものである。東大では「初年次長期自主活動プログラム」といって、少し長いが引用すると「入学した直後の学部学生が、自ら申請して1年間の特別休学期間を取得したうえで、自らの選択に基づき、東京大学以外の場において、ボランティア活動や就業体験活動、国際交流活動など、長期間にわたる社会体験活動を行い、そのことを通じて自らを成長させる、自己教育のための仕組み」を導入しているらしい。今から思えば、学生時代は春と夏に2か月以上の長い休みがあったので、ギャップイヤーならぬ、ギャップマンスの連続だったといえる。私の場合はそれに加え、記念すべき成人1年目をギャップイヤーとして堪能したというわけである。前置きが長くなったが、フィリピン滞在中はホテルやゲストハウスに泊まることはほとんどなく、他人の家に居候することが多かった。そのうちの1軒になんとウォシュレットがあった。1991年、私がはじめてフィリピンを訪れた18歳のときのことである。そのお宅で便意を催してトイレをお借りした。そして、用を足したあと、トイレットペーパーがないことに気づいた。初めて訪れたお宅で「トイレットペーパーがありませ~ん」とは叫べない。困った、困ったとトイレ内をキョロキョロしていたところ、便座の脇に見慣れぬレバーのようなものを見つけた。これはもしかしてと思って、そのレバーを動かしてみると、やっぱり。ニョキっとノズルが出てきた。もちろん、手動である。そして、ノズルをポイント下まで動かし、レバーをひねると、めでたく水が噴き出てきた。これがウォシュレット初体験の瞬間である。これで出口はきれいさっぱり。あとは、ザルでそばの水気を切る要領で、お尻をふりふり水気を切って、トイレでの一大イベントは終了した。ところで、このお宅のご夫妻はスラムの生活改善に取り組んでおり、スラムに住む子どもたちのためにデイケアセンターをつくったとのこと。早速、その活動を拝見させていただくことにした。そして、スラムを訪れたときのことである。また、便意を催したのである。幸い、デイケアセンターにはトイレが完備されていた。しかも、日の光がしっかり入るようになっていたため、とても明るい。用を終えるころには私の心まで明るくなっていた。しかし、またである。トイレットペーパーがない。「トイレットペーパーがありませ~ん」と叫ぶわけにもいかない。トイレにはバケツ一杯に水が張られ、手桶が置かれていた。これが何を隠そう、もうひとつのウォシュレットである。これがフィリピンではごく一般的で、都市部を除けば、大半がこれである。さて、おしりの洗浄のため、手桶で水をすくうところまではわかる。しかし、その先どうすればよいのか、初心者の私には皆目見当がつかない。おしりの下からポイントをめがけて、手桶の水を手でピシャピシャかければよいのか。そんなことをしても、汚れが落ちるはずはない。服だって濡れてしまう。結局、いろいろ考えた挙句、仕方なくハンカチでおしりをぬぐって、その場を後にした。そのハンカチをどうしたかはよく覚えていない。正しい方法はこうである。まず、膝を曲げ気味に、おしりを突き上げる。膝を曲げて、馬跳びの馬になるような感じである。次に、水の入った手桶を尾骨の高さまで持ち上げる。イメージとしては、リレーのバトンを受け取るときのような姿勢である。手桶の水が多いと、水をこぼす危険があるので要注意。そして、手桶のふちが尾骨にギリギリ触れない位置から水を流す。水が出口に到達しなければ、おしりの突き上げ方が甘いので、もう少しおしりを上方に。ただし、おしりの位置が高すぎると、おしりを流した水が勢いよく便器に流れ落ちるため、はね返りで足元を汚しかねない。これにも注意が必要である。最後に、汚れをしっかり落としたければ、水を流すだけの「初期洗浄」が終わったところで、水を流しながらもう一方の手で出口を軽くさするとよい。この儀式、皆さんにはまずお風呂場で試してもらいたい。フィリピンでの話をもう少し続けよう。フィリピンにもいわゆる和式と洋式の便器がある。和式(比式というべきか)は日本と同じ、しゃがみ込むタイプである。洋式も形はほぼ同じである。しかし、洋式は多くの場合、便座がついていない。日本では男性が小のときだけ、便座を上げる。あの状態で大を(女性は小も)するということである。これにも頭を悩ませた。洋式の便器に直接座るべきか。ちなみに、日本の便器のふちは便座を乗せるため、平らで幅がある。しかし、フィリピンの便器は便座を乗せることがないためか、丸みを帯びて幅はそれほどない。日本の便器のように返しがないので、清潔感はあるといえばある。ただ、これにおしりをつけるのにはやはり抵抗がある。それでは、どうするか。そうである。中腰をキープして、用を足すのである。これにもコツがある。ご想像のとおり、中腰で用を足すので、高めの位置から塊が、それは液状のこともあるが、落下する。そのため、汚水のはね返りを浴びかねない。そこで、はね返りを極力抑えるため、水面と便器の接点に照準を合わせて落下させるのである。できれば水面の手前側がよい。汚水がはねても、後方にはねるため、汚れずに済むからである。中腰で用を足すのはつらい。とくに長期戦にもつれ込んだときは、太ももが張り、膝がガクガクしてくる。持久力、忍耐力が試される。ここは修行僧のようにただただ耐えるしかない。しかし、人間にも限界がある。あるとき、もうどうしようもなくなって、敗北感とともに便器に着座した。着座を決意した瞬間は涙が出る思いでも、いざ着座してみると、便器のふちの丸みがおしりに優しいことに気が付いた。日本の便器のようにふちが平らだとベタベタするような気がするが、それがないのである。そして、太ももの緊張感が一気に溶けた。敗北感から一転、こころのなかで勝利の雄叫びを上げた。それ以来、私は長期戦が予想される場合は躊躇なく便器に座るようになった。ただし、座る前に便器を水でひと回しする。これでなんとなく、便器がきれいにみえてくる。男性はこの先、注意を要する。先ほど、便器のふちに返しがないと伝えたが、このふちがないために、小をする際、勢いがよいと、アユが川を遡上するように、小水が便器を遡上し、下したズボンや下着を濡らしかねない。そのような事態を避けるためには、下品で大変恐縮だが、蛇口を下げる必要がある。ただ、便器のふちの高さと便器のスライダーになっている部分との距離がかなり近いため、蛇口と便器の接触事故が起きかねない。あらかじめ蛇口を下げて着座するなど、工夫が必要である。その点、和式の便器では問題にならない。ただ、はね返りを浴びる可能性は洋式よりも高いのが難点である。また、和式での長期戦では立ちくらみに要注意。これは万国共通である。このようにトイレではさまざまなドラマが繰り広げられている。頭を悩ますことは多々あったが、トイレほど旅を刺激的にしてくれるものはない。(2017年9月)2017.09.03 15:00
不注意に注意旅先の宿選びは重要である。旅の目的が仕事であれ遊びであれ、旅の拠点となる宿は快適であるほうがよいに決まっている。とはいえ、高ければよいというわけではない。かといって、目安があるわけでもない。インターネットやガイドブックに記されている評価が当てになることもあれば、当てにならないこともある。要するに、運で決まる。私が最初にラオスへ出張したのは、記憶は定かでないが、確か4年前の2008年。宿のよしあしは運で決まる、というわけで、ラオスに滞在したことのある友人に適当な宿を紹介してもらった。1泊朝食付きで25ドル。その宿はゲストハウスと称していたが、ひげ面で長髪のバックパッカーがたむろするような宿ではなく、日本でいえば民宿や旅館に近い。外観や趣きは日本のそれとまったく異なるのであるが、こじんまりしていて、ファミリーで経営している(であろう)という点で似ている。この宿にはその後何度か宿泊した。しかし、年に2~3回出張するようになり、この宿では失礼になりかねない同伴者と出張することも増えてきた。そこで、現地の大学の先生に紹介してもらった宿、現地で開催された国際会議の案内書に記載されていた宿、インターネットでそれなりに評判がよい宿、そして5つ星ホテルにも泊まってみた。これらのホテルをおおざっぱに価格帯で分けると、50ドル未満の宿、50~100ドルの宿、100ドル以上の宿ということになる。リゾートホテルらしき宿はこれよりももちろん高い。100ドル以上の5つ星ホテルは快適ではある。しかし、大型ホテルだとアットホームな感じがせず、ビジネスマンが多いため、「仕事のために宿泊しているんですよ」という自覚を促され、非日常感を味わうことができない。出張とはそもそもそういうものであるが、仕事はちゃんとするのだから、非日常感を味わうくらいの楽しみは許されてしかるべき。それでは50~100ドルの宿はどうかというと、50ドル未満の宿より部屋がきれいだったり、広かったりするのであるが、その質は100ドル以上のホテルには及ばない。朝食も貧弱だったりする。それなら、50ドル未満の安い宿でいいじゃないか、ということになる。こうしたコスト感覚を貧乏性というのであれば、貧乏性で結構。それが私の素直なコスト感覚である。というわけで、最近定宿にしているのは1泊朝食付きで30ドルの宿である。朝食は7種類のメニューに限られているが、パンだけでなく、お粥や豆料理などバラエティに富む。それに、飲み物は2種類を選ぶことができる。ささやかながら、お得感があってよろしい。私のお気に入りは、スウェーデッシュ・ワッフルのクリーム&タマリンドジャム添え。ワッフルは凸凹のある少し厚めのクレープといった感じで、2枚供される。飲み物も何種類かあるが、私は決まってバナナシェークとコーヒーを注文する。毎日飽きずに同じメニュー。朝食としてはこれで十二分である。朝から食べ放題(ビュッフェ)は体に毒というもの。この宿の最大の魅力は値段に比して、朝食の質が高いところにある。実は部屋も決して悪くない。日本のビジネスホテルと比べたら、1.5倍くらいのスペースはある。エアコンはあるし、シーリングファンも完備されている。エアコン付きの部屋でシーリングファンは珍しい。そして、ほとんど見ないが、テレビもある。冷たいものが飲みたいときに助かる冷蔵庫もある。バスタブはないが、お湯が出るシャワーはあるし、トイレは水洗である。これで30ドル。お値打ちである。しかし、かゆいところに手が届かないところもあるのは否めない。ここ数日、季節の変わり目のせいか、体調を少し崩し、水っぽい鼻水が出るので、たびたび鼻をかむ。そのため、ティッシュペーパーが手放せない。5つ星ホテルであれば、デスク、ベッドサイド、洗面所など、いたるところに花が咲くようにティッシュペーパーが置かれている。いつなんどき、鼻水が落下しそうになっても、手を伸ばせばティッシュペーパーが手に入る。しかし、1泊30ドルの宿ではそういうわけにいかない。トイレからトイレットペーパーをもってきて、小さなデスクに置いておき、鼻水の落下に備える。ちなみに、こちらのトイレットペーパーはやわらかい。エンボス加工までしてある。だから、お尻だけでなく、お鼻にもやさしい。日本の再生紙を利用したトイレットペーパーはしわもなく、きりっとしていて、いかにもお尻との真剣勝負にはもってこい、という紙質であるが、お鼻にはシャープすぎてかなわない。こちらのトイレットペーパーであれば、何度でも鼻をチーンとしたくなる。そのため、トイレットペーパーは鼻水をかむという用途でも消費されていく。鼻水が出る朝はとくに活躍する。今朝もティッシュペーパーのロールが手のひらを何度も転がってみせた。今朝は少し体が冷えた。そのせいで鼻水が出るのかもしれない。そう思って、あたたかいシャワーを浴びた。朝一番のシャワーは実に気持ちよい。気持ちよいので、ついでに用を足した。これまた快便である。今日はなんだかよいことがありそうだ。いったいなんだろう。思いを巡らせ、気が付いた。トイレットペーパーを机に置きっぱなしにしてきてしまった。さあ、どうしよう。中腰で机まで歩いて、トイレットペーパーをとりに行くか。でも、お掃除のおばちゃんが部屋に入ってきたら、お互いに気まずいこと間違いなし。それだけではない。うわさ話が大好きなラオス人。「あの日本人、お尻丸出しで、部屋の中をはいつくばっていた」といううわさは、突風のごとく駆け巡り、従業員一同の知るところになるだろう。せっかくみつけた定宿。それを失うのかと思うと、涙が止まらない。自分の不注意を悔やんでも悔やみきれなかった。皆さんなら、どうするだろうか。実はそう深刻になる必要もなかった。どんな安宿でもお尻洗浄用のミニシャワーだけはトイレわきに備え付けられている。これでトイレットペーパーがなくても、きれいさっぱりお尻をリフレッシュすることができる。洗浄後は・・・感無量だ。濡れたお尻はどうするかって。そのままパンツをはけば、そのうち乾く。ケンカしたって、いずれ仲直りするのと同じである。あまり気にしないでおこう。(2012年7月)2017.08.07 15:00
B級テーブルマナーはあなどれないレストランで頭を悩ませるのがテーブルマナーである。とくに普段行きつけない高級レストランでは、粗相があってはならぬと自ずと気合が入る。しかし、それは外見だけで、どことなく無口になるのは気合負けの証拠である。事実、テーブル上に行儀正しく並んだナイフとフォークの数に圧倒されている。それでも気を落ち着かせて、ピラミッドよろしくそびえ立つナプキンに手を掛ける。が、ナプキンを全部広げるべきか、半分に折るべきか。半分に折るにしても、三角がいいのか四角がいいのか。咳払いをしながらスローモーションでナプキンを開き、周囲の素振りをチラ見して、同じように膝の上、いや太ももの上に置く。そして、ほっと一息。と思ったら、次なる試練は容赦なくやってくる。それは飲み物の注文である。神妙な顔つきでワインリストを開くと、視線はいやおうなくワインの値段に向かう。傍らではソムリエが親切にワインの産地や味わいを説明してくれている。こちらは上の空である。一番安いワインでは格好悪いので2番目にするか、見栄を張って3番目にするか。そんなケチな算段で頭がいっぱいである。そして、自信を持って2番目に安いワインを注文する。すると、ソムリエに「最初からフルボディは重すぎませんか」と指摘される。こちらは「そ、そうですね」と答えるのが精いっぱいで、脇の下は洪水状態である。昔話はさておき。テーブルマナーが必要とされるのは高級レストランばかりではない。B級レストランでも欠かせない。B級レストランといってもピンきりで、屋台から大衆食堂までさまざまである。屋台はB級レストランといえるかどうかは微妙なところであるが、大きな違いは屋内かどうかで、その中身はあまり変わらない。必要とされるテーブルマナーも共通している。そこで、私がこれまで東南アジアで学んだB級テーブルマナーを2つ紹介したい。東南アジアを旅する人にはおなじみの光景である。まず、給仕係の店員が持ってきてくれた皿、スプーン、フォークをナプキンで入念に拭く。これが正しいテーブルマナーである。ナプキンといっても、トイレットペーパーだったりすることもあるが、そんなことは構わない。とにかくゴシゴシ拭きまくる。まるで食器が汚いと言っているようである。これが失礼だと思ってはならない。食器をじっくり観察すると、水が切れていないのはよいとしても、油汚れが落ちていなかったり、食べ物がこびりついていたりすることはままある。日本のB級レストランではまずないだろうが、東南アジアでは当たり前である。食器が汚れていると店員に訴えたところで、何の反応もない。言うだけ損である。だから、B級レストランで気持ち良く食事をとるには、客自らが食器をきれいにする。これは鉄則である。話は少し脱線するが、かつてドイツに友人を訪ねたときのことである。1泊おじゃまをしたので、夕食後の食器洗いを手伝った。日本と同じく、食器は食器用洗剤でていねいに洗う。そして、泡だらけの食器を水で流す。と思いきや、泡を水で流さない。ふきんで拭き取るのだ。これまで東南アジアでカルチャーショックらしい経験はしてこなかったが、これこそカルチャーショックだった。帰国後、このことをオーストラリアでホームステイしたことがある友人に話したところ、全く同じ経験をしたとのこと。もっとも、見た目はきれいだし、臭いもしないので、食事に支障はない。一方、私がかつて滞在させてもらっていたフィリピンの村では、食器洗いになんと洗濯用の固形洗剤を使っていた。幸い泡は水で流していたが、プラスチック製の食器には洗濯用洗剤の強い臭いが浸み込んでとれない。そのため、いやおうなしに洗剤風味のごはんを食すことになった。これには本当に閉口した。いや、閉口どころではない。数日間は息を止めてなんとか食べていたが、鼻から漏れる息は明らかに洗剤臭だった。家の主は、息を止めてごはんを食べる風変わりな私をみて、バナナの葉っぱを皿代わりにしてくれた。これなら食器洗いをしなくてもよいし、なんとも風情がある。気持ち良く食事をとるには、なんといっても食器が大事なのである。さて、次のテーブルマナーは支払い時の注文明細チェックである。もっとも明細が示されないB級レストランもあるが、お勘定を頼むと注文の明細と金額が書いてある注文書をテーブルまでもってきてくれることが多い。その内容を入念にチェックするのである。しかも、店員の前で平然とチェックする。この場面は気弱な私にとって非常に居心地が悪い。まるでぼったくりを疑っているようである。しかし、店員はといえば憮然とすることもない。その様子に私はただ呆然とするしかなかった。しかし、明細をチェックするのは人間の性質を考えたら、当然すべきことなのかもしれない。というのも、人間は誰でもミスを犯す。注文の記載ミスや計算ミスは、その確率が低いとはいえ起こりうる。合計金額の算出には計算機を使っていても、打ち間違いは誰にでもある。そのようなミスを防ぐのに、客が明細をダブルチェックする。これは合理的である。ところで、日本のレストランでは手書きで注文をとることがめっきり減った。スーパーではバーコードを読み取るだけで、レジ打ちは今や珍しい。電子化されているので計算ミスなど到底起こりえない。私はそう思い込んでいたのであるが、これは大きな間違いであった。先日、しょうゆが切れたので、スーパーへ買いに行った。わが家では薄口しょうゆを多用している。薄口しょうゆのなかでも、「ひがしまる」というメーカーのそれである。関東では濃口しょうゆを使うことが多いため、スーパーの調味料コーナーでは薄口しょうゆの存在感はまさに薄い。しかも、毎日の料理で大活躍するのに、小さいボトルで売られていることが多い。ところが、その薄口しょうゆが大きなボトルで売られていた。しかも「特選」である。早速、頭の中で計算がはじまった。通常のものと比べて、特選はどれくらい高いのか。大きなボトル同士で値段が比べられれば、訳はない。しかし、通常の薄口しょうゆは小さなボトル、特選は大きなボトルだから、計算が面倒くさい。しかも、小さなボトルは大きなボトルと比べ高めなので、そのことも加味しなくてはならない。まあ、計算するまでもなく、数十円しか変わらないし、たまには贅沢もいいだろうと特選薄口しょうゆを買い物かごに収めた。そして、ビールなどと一緒に会計を済ませた。私は食料品のレシートに限ってはたいていスーパーのゴミ箱に捨てて帰る。しかし、そのときだけは会計金額に違和感を覚え、なんとなくレシートを財布に忍び込ませた。どうせ自分の勘違いだろうと思っていたのに、レシートをとっておくのは野性の勘というべきか、単なるケチか。数日後、再びスーパーを訪れた。そのとき、特選薄口しょうゆが目に入り、財布の中で眠っているレシートの存在を思い出した。そうだ、自分の勘はあっていたのだろうか。無性に確認したくなった。突然、研究者魂に火がついた。そんな言い訳、誰が信じるだろうか。どんな言い訳をしようとケチはケチである。しかし、ケチでよかった。私の勘は間違っていなかった。なんと50円も多く支払っていた。たかが50円と思われるかもしれないが、特選薄口しょうゆが1000本売れれば、5万円の差額。これは消費者とスーパーとの信用にかかわる。私はそこで、愛する地元密着型のスーパーのため、レジ係のおばちゃんにこっそり表示金額と会計金額が異なることを伝えた。そして、どうでもよかったのだが、50円が返金された。さあ、この予期せぬ臨時収入をどうするか。気が大きくなった私は研究室に居合わせた学生7人に寿司屋でご馳走した(というか、学生に誘われ、私が会計をした)。50円はその時の会計の消費税分にもならなかったが、まあいい。みんなの笑顔がたまらない。B級テーブルマナーに感謝である。(2017年3月)2017.08.07 15:00
悪気はないから憎めないタイは「微笑(ほほえみ)の国」といわれる。確かにタイの人たちは愛想がいい。しゃべり方はソフトで、あいさつやお礼をいうときは手を合わせてくる。そうされると強面のお兄ちゃんでさえ印象がよくなる。そんな一面がタイのお国柄としてあまりにも強調されすぎている、と私は思う。タイ人の微笑は、よくいえば「おおらかさ」の表れであるが、悪くいえば「いい加減さ」の塊である。そこになじめないとタイ人と付き合うのはつらい。今回は3泊5日でラオスへ出張。ラオスには、ベトナム経由かタイ経由で行くことができる。ベトナム経由だと、ハノイ経由とホーチミン経由の2ルートがあり、ハノイ経由のほうがラオスへ早く到着する。しかし、ハノイ発ビエンチャン(ラオス)行の午後便はラオス航空の機材で運行されているので、できれば遠慮したい。ホーチミン経由の午後便はベトナム航空の機材で運行されるのでよいが、プノンペン(カンボジア)を経由して、ラオスへ向かうため、時間がかかる。いずれの場合でも、成田空港を午前10時に出発するベトナム行の飛行機に乗ることになるので、成田空港には午前8時までに到着しなければならない。朝早いのはつらい。その点、成田発バンコク(タイ)行には正午発の便があるため、成田空港には午前10時までに行けばよい。この2時間の差は大きい。というわけで、タイ経由でラオスへ向かった。バンコク到着は4時半。日本時間では6時半なので、小腹がすく。乗り継ぎ時間はたっぷりと3時間もあるので、いつもラーメンを食べる。これは、機内で飲んだあとのシメでもある。空港の行きつけのレストランでは、あいかわらずボディコン(死語か?)を着たビア・プロモーター(ビールの売り子)が働いていたが、今回はひとりで入店したためか、「ハイネケンはいかがですか」などといって、ビールを勧められることはなかった。私はいつもの「バーミー・ナーム」を注文した。バーミーは、日本でおなじみの卵と小麦粉でつくられた麺である。英語ではegg noodleである。ナームは水(汁)を意味する。したがって、汁に浸かった麺ということである。なんのことはない、普通のラーメンである。東南アジアではバーミーに加え、クイティアオという米粉でつくられた麺も食される。日本ではベトナムのフォーでよく知られる、あの麺である。私は断然、バーミー派である。クイティアオにはコシがないので、食べた気がしない。いや、おなかはいっぱいになるので、正確には噛んだ気がしないのである。とはいえ、こしあんと粒あんのどちらが好みか、といった程度の話であり、どちらもおいしいに違いない。ラーメンのトッピングには、日本のラーメンではあまりお目にかからないローストダックやフィッシュボール(つみれ)などが選べるが、私のお気に入りはローストポークである。これに揚げワンタン(ただし、皮だけ)、分葱がトッピングされる。数種類の肉が一緒に盛られることもあり、肉だけでなく、幸せな気分も味わえる。待つこと5分。注文品がやってきた。いい香りが漂い、無意識に姿勢が正された。しかし、口元はゆるみ、胃袋はワニの口よりも大きな口を開けて待っているのではないか、というくらい大暴れである。いや、ちょっと待てよ。麺が白い。これはクイティアオではないか。ラーメンを運んできたビア・プロモーターは、なんのためらいもなく、「バーミーは切れているので、クイティアオでいいですか」と。私は当然、「バーミーが食べたい」と主張した。日本人なら、「いいよ、いいよ」となるところかもしれない。そもそも日本ではバーミーがないからといって、勝手にクイティアオを供することはないだろう。「いいよ、いいよ」となるのは、間違えてクイティアオを供されることが前提である。私はバーミーが食べたいのだ。そして、そう主張してから5分もたたないうちに、私の目の前にバーミーが供された。やっぱりあるのではないか。私は、これでいいのだ、とうなずいた。それにしても、このいい加減さは悪気がまったくうかがえないだけに憎むに憎めない。相手に文句を言ったところで、相手に悪気がないのだから、反省するよしもない。憎んだだけ、こちらが不快な思いをするだけである。それなら、反省しなければならない理由を説明すべきか。私はラーメンごときでそんなにエネルギーを浪費したくはない。バーミーが出てこないのであれば、「また来ますね」と笑顔で答えればいい。待望の、といっても10分待って出てきたバーミーを口にした。タイのラーメンはさっぱりしていて、実にうまい。ラーメンのスープはしばらくの間、舌先で踊った。タイならではの先の経験には心を躍らせた。懐かしい、この感覚。そして、そうこうしているうちに、ラオス行の飛行機に搭乗する時間になった。バンコクからラオスの首都・ビエンチャンまでは約1時間の飛行である。出発時間が30分ほど遅れたので、ビエンチャンの空港に着いたのは夜9時半過ぎになった。手荷物しかもってこなかったので、荷物の回転台を素通りし、足早に換金所へ向かった。滞在中の小遣い1万円をラオスの通貨・キップに換金した。これで3日間の飲み代は十分すぎるくらいである。空港から市内へ向かうにはタクシーを利用するしかない。市内までの料金は定額で前払いなので、ぼられることはない。タクシー・カウンターで手続きを済ませ、所定のタクシーに乗り込んだ。タクシー運転手はつたない英語で私に頼みごとをした。「タクシーが少ないので、もうひとり客を乗せてもいいか」と。私はもちろん、こう答えた。「急いでいるから、早く車を出してくれ」と。いい加減さは国境を超える。これに慣れると、やみつきになるので要注意である。(2012年7月)2017.08.07 15:00